倭は 国の まほろば たたなづく 青垣山 隠れる 倭し美し 命の 全けむ人は畳薦 平群の山の 熊白檮が 葉を 髻華に挿せ その子 愛しけやし 吾家の方よ 雲居起ち來も~ {大和 三山.大和 国中~遥か彼方に 二上山. 信貴. 生駒の山々~}
2007/12/03
生駒聖天 厄除 大根焚き 師走 一日
「大空の中に
龍に
乗れる者あり
かたち
唐人に似たり
青き油笠を
着て
葛城の嶺より馳せて胆駒山(いこまやま)に隠る
午の時にいたりて住吉の松のいただきの上より
西に向い馳せ去りぬ」
~(日本書記) 中大兄皇子の母皇極天皇が
斉明天皇として再び 即位された年(六五五)の
記録にもあり~~
悠久の時代から 生駒山は 神霊の宿る山として
崇められてきました
生駒聖天の好物である 大根が 炊かれ
厄除けも兼ねて 参拝者に振る舞われる
師走一日(12.1)
「現世利益」の 宝山寺は商売繁盛等にも
御利益が有ると言われ 全国各地から
信仰心の厚い多数の参詣者が集まって来られます
巨額マネーが動くとさえ言われています
防衛利権 欲望の深穴に
落ちたとも言われる 守屋武昌(前防衛事務次官)が
収賄等の疑いで 夫婦共に逮捕されたのは
記憶に新しいが 彼らにこそ 食して
いただきたいもの!~~と言ったら
聖天さんのお叱りを受けるかもしれませんね!
防衛官僚トップの堕落と腐敗の追及は勿論のこと
この国の将来をも担うとされる 武器調達の
実態も露呈し 巨悪の全貌を 視野に入れた
解明等 徹底した捜査をされることを 期待して切 !
また 生駒山は
今も山中にお瀧場として
霊場
弘法大師以後 般若窟は
生駒山中の
霊場の中心なり 寛平年間に 生駒仙という者がいて
菩提を求めて行をしたとされています
延宝六年(一六七八)十月十日に
中興開山 湛海律師が入山された当時
その頃の山は 鬼や化け物などの妖怪が住み着いて
人々を脅すので 村人も 午後四時を過ぎると
山には入りませんでしたが~~~
庄屋さんはこれは般若の岩屋の罰を受けているからで
あろうと 山を治めてくれる行者を探し求め
不動尊の行者として 名が知れ渡っていた
湛海に白羽の矢をたてたそうです
庄屋の話を伝え聞くや 湛海は二つ返事で
生駒へ移ることを決心
庄屋を道案内として山に入られました
入山第一日目散らばった石を取り片付け
座禅が出来るほどの土地を整理して
夜露が掛からない様に菰を張りって
瞑想していると 夢のなかに
財天女がお出ましになり
天女は手桶を持って水をお汲みになり
湛海を接待なさろうとされるご様子で
何なりとも仰せの様に致しましょうと申されました
それから三四日経った夜のこと
髪の毛が針のように尖り 肌はごつごつとした
岩のような大きな夜叉が組付いてきて
「ここは俺が住んでいる所だ、早く立ち去れ」と
湛海を圧し潰そうとしましたが
和尚は少しも慌てず 一心に不動明王の
ご真言を唱えると 夜叉も後をも振り向かずに
北の方へ逃げて行ったと伝えられています
本尊不動明王坐像
八万枚の護摩供を終えられた湛海はその年の
秋 八月に 本尊不動明王坐像を刻まれました
和尚は僧侶としての修練を積まれながら 多くの仏像を刻まれ
仏画を描かれています 中でも不動明王を始めとする
忿怒像に関しては 江戸時代随一の技術と
評価されています
長い間の修行の上での仏像・仏画は
単なる仏師にはない鋭さを持ち
拝する者に畏敬の念を起こさせます
特に元禄十四年(一七〇一)に彫刻された厨子入り
五大明王像は
国の重要文化財に指定されています
昨年の師走十日
小生の Web log
{酒旨し師走に友と歌う~}には
下記の様に
書いたことが 懐かしく思い出します
「師馳す」と言う説は
平安末期の「色葉字類抄(いろはじるいしょう)」に
「しはす」の注として説明されています
また「師馳す」説は民間語源で
「師走」の字が当てられ
「年が果てる」意味の 「年果つ(としはつ)」が
変化したり 「四季の果てる月」を意味する
「四極(しはつ)」からとする説
「一年の最後になし終える」意味の
「為果つ(しはつ)」からとする説などが
あるそうです
鯛焼屋濃く焼き師走の色といふ 林 翔
酒旨し師走に友と歌ふ時 大三
戊子の年頭に
一の鳥居を
飾る
注連縄
「現世利益」を願い多くの参拝者を迎える
大鳥居の
注連縄は
十二月十六日の
奉納される日まで宝山寺の境内に
置かれています 多謝! 多謝!
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