『若葉して 御目の雫 拭ぐはばや』
大和 唐招提寺開山堂で{鑑真像}を
拝み詠う {芭 蕉}
拝み詠う {芭 蕉}
『盲ひてなお浄慧の人は明らけし
面もちしろく春を寂びてぞ』{若山牧水}
遥か{唐}より六度.12年間にも及ぶ 多難な
渡航を乗り越え~日本僧の栄叡.普照に
要請されて来日~悠久の時空を越えて
瞑想される名僧 {鑑真 和上}
渡航を乗り越え~日本僧の栄叡.普照に
要請されて来日~悠久の時空を越えて
瞑想される名僧 {鑑真 和上}
{鑑真和上}1250年忌~鑑真和上坐像(8世紀)を
模造した{お身代わり像}の {開眼法要}
6月5日営まれ 唐招提寺.石田長老が
世の中の平穏を願い{慶讃文}が読み上げられ
舞楽の奉納や献茶が催されていました
{お身代わり像}は御影堂や鑑真の墓所
開山御廟を通って開山堂に安置されました
開山堂に安置された{お身代わり像}は
6月7日から一般に公開され{国宝像}は
御影堂で9日まで特別公開されています
この{お身代わり像}は京都・美術院国宝
修理所が 天平時代の彩色を再現し
黒っぽい色を重ねる古色仕上げを行い
平成22年12月から2年半かけて制作
された労作ですね!
{開眼法要を終えてほっとしました
本物と同じく千年後は貴重な文化財と
見なされる様 持てる技術をつぎ込みました}
美術院国宝修理所.藤本青一所長(談)
大寺の まろき柱の 月かげを
土に踏みつつ ものをこそ思へ 会津 八一
『若葉して 御目の雫 拭ぐはばや』
唐招提寺 開山堂で鑑真像を拝み詠う 芭 蕉
鑑真和上が 天平宝字七年(763) 5月6日
結跏趺坐し 西に面し七十六年間の生涯を
終えらましたが 弟子 忍基は講堂の棟や梁の
くじける夢を見て 鑑真和上の遷化近いこと予感
高80㎝ 脱活乾漆造り穏やかな微笑--眼許から
顎にかけて感じられる強い意志--そんな和上の
像を刻んだと言われていますね!
筋骨逞しい体膈---拝する人々の心に迫り
静まり返っている盲いた双つの眼{鑑真和上坐像}
鑑真和上が亡くなってから 九百年後---元禄元年四月
芭蕉は唐招提寺 鐘楼の北側の鑑真の往坊跡に
建てられていた開山堂で鑑真像を拝んで
『若葉して 御目の雫 拭ぐはばや』と詠った作品
芭蕉は鑑真像の盲いた双の眼に露わならぬ悲しみ
涙を感じとり----辺りは若葉で埋まっていて
その若葉で御眼の涙をぬぐって差し上げたい
そんな気持ちが伝わってきますね!
盲いた眼を持って日本に渡って来られた
{鑑真像}を拝し静かに閉じられている双の眼に
打たれますね!
『天平の甍』の著者 井上靖は
『おん目の雫』と題する著述で
芭蕉の句について
「芭蕉は鑑真像の盲いた
双の眼に それと露わならぬ
悲しみを 涙を感じ
取ったのである」
芭蕉の句について
「芭蕉は鑑真像の盲いた
双の眼に それと露わならぬ
悲しみを 涙を感じ
取ったのである」
{天平8年前後は鑑真に
とっては最も苦しい時期であった
とっては最も苦しい時期であった
その苦しい時期のことを思い出す度に
必ず榮叡と祥彦の二人は鑑真の瞼の上に
浮かんできたに違いないと思う
そして その都度 鑑真の盲いた眼は何ものでも拭うことができぬ涙で
あったことであろうと思う---芭蕉はその涙を若葉でぬぐって差し上げたい
あったことであろうと思う---芭蕉はその涙を若葉でぬぐって差し上げたい
と思うたのである}(井上靖)
{若山牧水}
「水楢の柔き嫩葉(わかば)はみ眼にして
花よりもなほや白う匂はむ」
「盲ひてなお浄慧の人は明らけし
面もちしろく春を寂びてぞ」
{会津八一}
「大寺のまろき柱の月かげを
土に踏みつつものをこそ思へ」
{LINK} Lucky
PAL (PAL is My Family)