2015/08/06

{熊野水軍九鬼嘉隆} 伊勢に鳥羽浦 屏風に立て海境越え~答志島!

伊勢志摩サミット
(平成28526.27)
来年に控えた海や山の
自然に恵まれた{美し国}
伊勢志摩ライナー(近鉄特急){立秋}を跨ぎ
{2.3}の小旅行に出かけました
62回神宮式年遷宮五十鈴川 上流に
御鎮座の天照坐皇大御神~皇大神宮(内宮)
山田の原に御鎮座の豊受大御神豊受大神宮
(外宮)~伊勢太神宮にて-----
     『二拝 二拍手 一拝 
お伊勢さん』」の{おかげ横丁}を通り~鳥羽着・先ずは 信長に頼られ
家康に恐れられたと言う熊野水軍 総督九鬼嘉隆の《鳥羽の浮き城
 22年間 鳥羽の小浜で町医者として過ごしたと言われる 漂泊の詩人
伊良子清白の旧家が鳥羽マリンパークに移築されたと聞き
立秋とは言え炎天下の鳥羽駅を徒歩で出発! 
明治10104日島根に生まれた 伊良子清白(輝造)
明治326月に京都府立医学校を卒業~鳥羽小浜で 
漁村の治療に専念した医師でもあり---
ロマンチックな空想を基調--豊富な抒情性.物語性を伴った
18の詩篇だけを積んだ『孔雀船』を残して
明治の詩壇から 消え去った(漂泊の詩人)--言われていますね! 
『孔雀船』巻頭の 《漂泊》
蓆戸に 秋風吹いて 川添の旅籠屋さびし
    哀れなる旅の男は 夕暮れの空を眺めて
           いと低く 歌いはじめぬ ~~~
《安乗の稚児》 
志摩の果 安乗の小村 早手風岩をとよもし
     柳道木々を根こじて 虚空飛ぶ断れの 細葉
石垣だけが残る熊野水軍総督.九鬼嘉隆{鳥羽の浮き城 錦(二色)城}

大手門を{}に向け---{海側が黒色} {山側が白色}
信長に頼られ家康に恐れられた》と言われている
熊野水軍-九鬼嘉隆の居城~その後.内藤 土居.松平 坂倉~稲垣が
最後の藩主となったが明治4年度会県に編入されました
名残の《鳥羽の浮き城》は夏休み中の現在~親子ずれで賑わう
鳥羽水族館を眺めるように熊野水軍総督 九鬼嘉隆の栄華
偲ぶかの如く蝉時雨~石垣{城跡}案内図だけがひっそりと
残っていました
♪鳥羽の浦から 舟路も軽く
     かもめもろとも とび立つ思い
   心はればれ 海境越えて
      今日も来ました答志島♪ {答志小唄} 
鳥羽.佐田浜~答志島.和具漁港へ渡った処
{ようこそ九鬼水軍
ゆかりの地.答志島

矢張り答志島は戦国時代に
織田信長方で勢力を誇った
九鬼水軍の根拠地ですね!
海に向かった大手門の海城!
海の浮き城鳥羽城を築き上げ
10年以上も対抗してきた
毛利水軍(村上水軍)鉄張の
軍船をつくり撃退した
九鬼嘉隆(15421600)の根拠地ですね!
九鬼嘉隆父.は関ヶ原の戦いで西軍.東軍に分かれて戦い
西軍の嘉隆は 答志島で自刃!
「我が首は我が鳥羽城が見える場所に」嘉隆の首は
鳥羽城を見渡せる丘の上~胴はその麓に葬られ
{首塚、胴塚}として答志島.和具に残されています!
浜辺で休憩中の親切な島の海女さん(83)に案内されて尋ねて見ました
守隆()が父である嘉隆追善のために建てたものとされていますね!
 {八幡神社の八}{神祭}(旧暦.117 日~19 )神聖なる墨を
島の男らが奪い合い!島の人達が次々に{お的}に飛び込み護符!
この墨紙で家の戸口や船に{丸に八の字}~1年の大漁.魔除け家内安全を祈願されます
海の安全祈願.弓引神事は答志島の祭の中でも最も盛り上がる
迫力満点の行事ですね! 
{寝屋子交流の館}{寝屋子制度}
答志島では古からの慣習として寝屋子制度!{寝屋親}~中学校を
卒業した男の子を預かり世話をする制度!答志島の若者達は生涯
義兄弟の縁を結ぶと言われていますね! 
釧つく 手節の崎に 今日もかも 
          大宮人の 玉藻刈るらむ  
          柿本人麻呂 萬葉集 巻壱-0041
釧を着ける手節の岬に今日も 大宮人たちは玉藻を拾っているだろうか
柿本人麻呂が持統天皇の求めに応じてこの歌を詠んだ
{手節の崎}(答志島)
八幡神社の鳥居の近くに柿本人麻呂の歌碑が建てられています 
♪鳥羽の浦から 舟路も軽く
   かもめもろとも とび立つ思い
心はればれ 海境越えて
   今日も来ました 答志島♪
♪潮の速さも 胸すくばかり
   何故かひかれるあのまなざしの
        彼女の口笛 懐かし恋し
伊勢に鳥羽浦 屏風に立てて
     知多も渥美も 庭石小石
      過ごした一夜が夢路にかよう 
茜に映えた 海原ひろく
     はるかに昇る 大きな朝日
        今年しゃ豊年 豊漁のしるし{答志小唄} 
LINK  Lucky PAL (PAL is My Family)
http://blogs.yahoo.co.jp/gogogen2005