2016/03/21

遥か霊峰.白山~[此の川の くろ谷橋は 絶景の地也]~俳聖松尾芭蕉も称賛した 加賀温泉郷.菊の湯

北の大地~[東京―新函館北斗間]
最短4時間2分.速やかに結ばれる
[北海道新幹線開業]カウントダウンで
盛り上がっていますね!

[上野―札幌間]寝台特急 《カシオペア》上り最終列車を『ご苦労様!頑張ったね』
悲喜交々で見送った多くの方々がおられた事でしょうね!
 [札幌―青森間]479.1キロを結ぶ夜行急行 《はまなす》
道内最後の《夜汽車》惜別の日(3.22) 迎えましたね!
北陸新幹線[東京駅-金沢駅間]が最速2時間28分で結ばれた
陸新幹線金沢開業(2015.3.14)から1周年を迎えた昨今!
新幹線開業記念.各種イベントを繰り広げ
[駅を降りた人に 傘を差し出す もてなしの心]
金沢駅の玄関口3,019枚のガラスを使用して明るく雨にも濡れない
ドームを中心に盛り上がっていますね!
加賀藩.御膳所の老舗料亭{大友楼}九谷焼.輪島塗.華麗な器で舌鼓!
そんな贅沢三昧は 叶わぬ小生の事~[JR金沢駅]でも{大友楼}の駅弁を販売
していると聞き前田家.梅の御紋が記された[{利家御膳}を賞味致しました
{霊峰.白山}を遥かに眺め乍ら~俳聖松尾芭蕉も称賛八泊九日もした
[加賀温泉郷]山中温泉 {俳諧散歩}洒落込んだものです

「此の川の くろ谷橋は 絶景の地也
        行脚のたのしみ 奚にあり」 芭蕉
加賀.大聖寺川~[鶴仙渓]~奇岩怪石の立ち並ぶ素晴らしい景観!
渓谷美を堪能致しました
[黒谷橋][こうろぎ橋]にかけて1.Km[鶴仙渓]の遊歩道を尋ねて観ました
山峡の加賀温泉街~薬師山~道明ヶ淵~[黒谷橋]~松尾芭蕉が 
行脚の楽しみ ここにありと称賛した景勝地です
芭蕉は山中湯に“桃源郷”を見立てました.当時は 那谷道を通り
[黒谷橋]を渡って多くの旅人が山中を訪れたと伝えられています
[あやとりはし]華道.草月流.家元.勅使河原宏先生デザインのユニークな
S字型.橋紅紫色と渓谷とのコントラストが見事に表現されています
[芭蕉堂] ~芭蕉翁を祀る御堂.全国の俳人によって明治43年に建てられました
[芭蕉の館] ~芭蕉翁が泊まった泉屋に隣接し扇屋別荘を改築!
山中温泉最古の宿屋建築昭和6年の大火にも類焼を免れた貴重な建物です
{やまなかや 菊は手折らじ ゆのにほひ}
[芭蕉の館]2階~[芭蕉.桃妖] 資料展示室
芭蕉が書き残した{やまなかや菊は~}掛軸.真蹟.芭蕉像や扁額等々 
俳諧資料が公開.展示!
曽良を伴い江戸から[奥の細道]の旅に出て山中温泉八泊九日.四ヵ月に渡る
[同行二人]の旅の終焉の地.芭蕉・曽良はそれぞれの思いを句に託しています!

{ゆきゆきて たふれ伏すとも 萩の原}  曾良
{今日よりや 書き付け消さん 笠の露}  芭蕉
芭蕉を敬愛していた俳人.蕪村は[奥の細道]全文に絵画をいれて
写しています蕪村筆[奥の細道]山中の段の後半ですね
[総湯・菊の湯] ~賀藩の藩営温泉.[白鷺発見伝説][行基発見伝説]等もあり

温泉街の中心に共同浴場[菊の湯]=「総湯」とも呼ばれています
芭蕉も称賛した名湯とされ.女湯には[山中座]併設.前には足湯もあり
春休み中の学生さん達もお湯につかり戯れていました
《菊の湯前の 石碑碑文》
『山中温泉はいまから千三百年ほど前 僧行基が北陸行脚の際.
発見しその後一時兵乱のため荒廃していましたが文治年間.
長谷部信連がこの地に鷹狩りの際一羽の白鷺が芦の間の流れに
傷脚を洗うのを見て霊泉の湧出するを知りここに浴槽を設けて
以来八百年の歳月を経て次第に繁栄を見るようになり 
日本三名湯の 一つにもかぞえられ
特に元禄二年 俳聖芭蕉をはじめ多くの文人墨客が訪れ山中の名は
年と共に著われ 殊に昭和六年大火の後は湯の街の面目を一新し
今に見る情緒豊かな温泉観光地が形成されたのであります』
早春のお楽しみは[カニ汁大鍋]の振る舞い!

山中の冬の名物と言えば[大鍋の振る舞い]
山中温泉出身の料理人・道場六三郎氏監修
[こだわり食材]をつかった[かに汁大鍋]
山中漆器で頂いた[かに汁大鍋]の豊かな味!
心の中まで温まり難う御座いました
{漁火に 河鹿や波の 下むせび}  芭蕉

「此の川の くろ谷橋は 絶景の地也
                   行脚のたのしみ 奚にあり」 芭蕉
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2016/03/15

煌めく{炎}~{南無観世音} 1265回 東大寺.二月堂{十一面悔過}  



天平勝宝{752}連綿と途切れず
幾多の辛酸を潜り抜け
1250年以上に渡り連綿と
続けられている
第1265回目 東大寺二月堂
{修二会}  [十一面悔過]


厳格な清浄さで 慰霊と災害.復興への 祈願.二月堂本尊の十一面観音に
人々の罪を 懺悔.{五穀豊穣}{万民快楽}---幸せを祈る 東大寺二月堂
{修二会}今年は1265回目を迎えました
         須弥壇の 周りを駆ける [走りの行]
躍動的な[達陀の行]  (312日~14)  {炎}の力!
邪悪を払い 燃え盛る籠松明を持った火天役
内陣に水天役と向き合い飛び跳ねる仕草を繰り返した後
松明が礼堂に投げ出され 春寒の弥生三月十五日未明 
大和路の春を呼ぶ煌めく{} 古都の祭典は世の平穏.祈りを捧げ
三月十五日未明に 満行 を迎えますね! 
「お水取りが終わるまでは暖かくならない」

[神に近い子]{中灯 童子 }
[東大寺二月堂大欄干] 聖域に入ることを許された神に近い子《童子》
{中灯 童子 敏丸} として大松明を持つ{童子}を務められたのが
小生宅のご近所にお住まいの 門谷敏也さんです
今年は御家庭の事情により休場となりましたが{中灯さん~行きまぁ~すぅ}
あの元気な声が聞かれず~東大寺二月堂大欄干で乱舞した
勇壮な炎 {籠松明}を持たれた 門谷敏也さん~今年は 御家庭の御事情で
あの時の雄姿が観られないのが~残念な限りです
童子は聖域に入ることを許された神に近い子資格を持った人達であり
《練行衆》 其々一人ずつ付かれいますね!
門谷さんは 二月堂・大宿所で大松明の作成.食事等 練行衆の御世話で
昼夜を問わず多忙を極められていました
門谷敏也さん宅の門前に{今年も}ある--二月堂大欄干--勇壮な炎が
闇夜に乱舞した「籠松明」 《無病息災》を齎して頂く大松明(8M)
重さは 80キロと言われます
満行を迎えた『籠松明』を身近に眺め手に触れる事が出来.あの日の
感動が蘇えります本当に有難う御座いました

東大寺.法華堂{三月堂}「北門」芭蕉の句碑

二月堂へ往く前に 広い東大寺境内で最初に訪ねたのが
大仏殿の創建より古く天平四年(733) 良弁僧正創建 
{金鐘寺}一堂でもある 法華堂{三月堂}でした
水取りや 氷の僧の 沓の音 {芭蕉~二月堂}  

東大寺・三月堂「龍王之瀧」の 前
水取りや 氷の僧の 沓の音
《 水取りや 籠の僧の 沓の音 》

天下安泰.万民幸福・1265回目を迎えた伝統行事.粛々と行われている
ニ月堂 {修二会} ~御隣りの{法華堂}
{北門}にある 芭蕉の句碑

水取りや 籠の僧の 沓の音

ところが 松尾芭蕉が 貞享元年 伊勢.・伊賀.大和.近江を巡った
[野ざらし紀行]の稿本.写本の中でも芭蕉 直筆とされている
『天理本』には[籠の僧]ではなく[氷の僧]となっているそうです
 二月堂に籠りて (前書)   水取りや 氷の僧の 沓の音
{天理大学付属 天理図書館は 小生の地元
高校生時代から屡 受験勉強と称して利用させて
頂いていましたが残念乍ら未だ芭蕉 直筆
されている『天理本』原本を拝読する機会がありません
俳壇の大御所()~「氷の僧だから名句!
籠の僧とすれば駄句に過ぎない!
{ダーン! ダーン!~二月堂 堂内では上堂
練行衆は沓を鳴らし本尊に{参りました}と告げます
{ダン!ダン!ダン!}{ダダダダッ!}
「差懸」(木製の履物)~沓の音は更に激しく二月堂.舞台の下まで
響き渡り練行衆は内陣に駆け入って行きますね!

佳景寂寞として心すみゆくのみおぼゆ』
推敲の名手.俳聖 芭蕉

{奥の細道} 山寺 {立石寺~蝉の句}
推敲例として 有名ですが~  
山寺や石にしみつく蝉の声    {曾良書留}
淋しさの岩にしみ込せみの声   {木がらし}
さびしさや岩にしみ込蝉のこゑ {初蝉.泊船集}
 
閑さや 岩にしみ入蝉の声

{閑さや}{岩にしみ入}~推敲にて~
奥の細道本文には~
「佳景寂寞として心すみゆくのみおぼゆ」
と言ったのでしょうね!

平泉中尊寺に詣でた時の{光堂}(金色堂)
{五月雨の降のこしてや光堂}

蛍火の昼は消えつつ柱かな
五月雨や年ゝ降りも五百たび
五月雨の降のこしてや光堂

{随行日記}--曾良によれば日は{天気朗}
芭蕉は{五月雨}を降らし{鮮やかな光堂}となり
余にも名句として残っているのでしょうね!
これよりは恋や事業や水温む  高浜虚子

大正5.高商句会で虚子が東京高等商業の卒業生を送る俳句
{水温む}~そんな季語が相応しい季節を迎えますね!
「お水取りが終わるまでは暖かくならない」
ちりぬれば 匂ひばかりを 梅の花 ありとや袖に 春風の吹く

 千利 連八 尓保 比者可    [藤原 有家](新古今)

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