紀伊半島の南.吉野熊野国立公園「大台ヶ原」日本の秘境100選.日本百名山)
恵まれた多量の雨が 湿潤な 気象条件を生み出し 日本を代表する 原生林.
貴重な 動植物の楽園花の百名山にも選出されています.
大台ヶ原の 最高峰[日出ヶ岳] [大蛇嵓]
渓谷の美しさが堪能出来る⇒[シオカラ谷吊り橋]
幻想的なトウヒの立ち枯れが続く[正木ヶ原.牛石ヶ原]
遥か彼方の熊野灘を望む [神武天皇像]を拝し~
大蛇嵓→日出ヶ岳→渓谷シオカラ谷橋→七ッ釜滝・大杉谷登山コースを⇒
桃の木山の家に泊まれず.急な降雨.トレッキングの先輩諸兄のテントに~
七ッ釜滝.渓谷美を堪能し辿り着いたのが天正16年
本居宣長記念館も近い二の丸から[御城番屋敷]を
眼下にし.本居宣長弁当ならず 山小屋の(おにぎり)を同行の学友等と賞味した
頃が走馬燈の様に蘇って来ます~あの頃から数回. 松阪を訪ねています.
『近江商人と伊勢松坂商人』令和5年2月5日迄 豪商のまち松阪.観光交流センター
(松坂商人.近江商人)紹介.DVD放映.松阪もめんのお雛様展示.~
近江商人ゆかりの地. 近江八幡.東近江市.日野町の物産販売スタンプラリー
[押印場所] 旧小津清左衛門家.旧長谷川治郎兵衛家.松阪市立歴史民俗資料館.
原田二郎旧宅
『古事記』を読めば古の時代の人々の姿が見える(本居宣長記念館)
冬の企画展 [宣長と春庭]が催されています.(3月5日迄)
国学者.[本居宣長]の息子として誕生した [春庭] 盲目ながら周囲の手を借り.
動詞の活用形を研究.29歳のときに眼病を患い32歳で失明します.
父.宣長の指導のもと.書写を楽しむ若き日々.病を患い 辛く苦しい眼病治療.
春庭の緻密で実証的な学問⇒父宣長の継承でもあり. 宣長亡き後の
言語学者としての開花!
現在も学生達が学ぶ『動詞の活用形』~諦めなかった[ 宣長と春庭] 其々を
支えた人々が歩んだ八衢(やちまた)な道等が 紹介されています.
『敷島の大和心を人問わば.朝日ににおう山桜花』
伊勢松坂の豪商.小津家の出身『国学の四大人』『本居宣長』~[荷田春満.
賀茂真淵.平田篤胤] 自宅の鈴屋にて門人を集め講義~『鈴屋大人』
本居宣長 12歳から72歳で没するまで60年間 暮らした[本居宣長旧宅]
元禄4年(1691)松阪職人町に建てられ.魚町に移築されました
明治42年.保存の為 [松坂城跡]の現在地に移築
宣長が 医療活動をした[店の間][仏間] 講釈や歌会に使用し~(二階の書斎)を
「鈴屋」
長歌の左注に「鈴の屋とは. 三十六の小鈴を赤き緒にぬきたれては
しらなどにかけおきて物むつかしきをりをり引なしてそれが音をきけ
ばここちも すがすがしくおもほゆ.そのすずの歌は.とこのべに.わが
けていにしへしぬぶ.鈴がねのさやさや.かくて此屋の名にもおほせつかし」
『鈴屋集 巻5』
これ以後.宣長の屋号として家集の表題や蔵書印.帳簿の裏表紙などにも使用.
本居宣長は『源氏物語』や『万葉集』中国の本も講釈し.夜も更けて皆が
帰った後.一人で『古事記』を解読『古事記伝』を~~
(昭和28年3月31日.国特別史跡指定)
『本居宣長』の 名言5選
『外の義に心移し申さず.ただただ一筋に 医学修行専一にせよ』
『才のともしきや.学ぶことの晩おそきや. 暇のなきやによりて
思いくずおれて 止まることなかれ』
『かぎりを行うのが人の道にして. そのことの成ると成らざるとは
人の力のおよばざるところぞ』
『敷島しきしまの大和心やまとごころを人問わば 朝日ににおう山桜』
『人の情の感ずるとこ 恋にまさるはなし』
(古典の文献研究)を通し 古道の探求を行い(大和心)とは 神の御心のままの
「惟神の道」[古道]と汚れのない「真心」古代に見られる[たをやめぶリ]と
いう 女性らしさであり~(古事記・源氏物語)⇒(もののあはれ)に通じ
[敷島の大和心を人問わば朝日ににおう山桜花]と詠み
[もののあわれを 深く知る心情]に大和心を求めたのでしょうか.
『咲きにほふ 春のさくらの花見ては 荒らぶる神もあらじとぞ思ふ』(宣長)
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