2019/05/19

『若葉して 御目の雫 拭ぐはばや』(芭蕉)~中興の祖.覚盛上人「血を吸わせるのも修行のうち」ハート形の宝扇・唐招提寺({うちわまき}


大寺の まろき柱の 月かげを
   土に踏みつつ ものをこそ思へ    会津 八一 

『若葉して 御目の雫 拭ぐはばや』   唐招提寺 開山堂で鑑真像を拝み詠う  芭 蕉
鑑真和上が 天平宝字七年(763) 56日 結跏趺坐し.西に面し七十六年間の 生涯を
終えらましたが 弟子 忍基は講堂の棟や梁のくじける夢を見て
鑑真和上の遷化近いこと予感!
80㎝ 脱活乾漆造り穏やかな微笑--眼許から顎にかけて 感じられる 強い意志!
そんな和上の像を刻んだと言われていますね!
筋骨逞しい体膈---拝する人々の 心に迫り静まり返っている盲いた双つの眼(鑑真和上坐像)
鑑真和上が亡くなってから九百年後.元禄元年四月.芭蕉は唐招提寺 鐘楼の北側の
鑑真の往坊跡に建てられていた開山堂で鑑真像を拝んで
『若葉して 御目の雫 拭ぐはばや』と詠った作品
芭蕉は鑑真像の盲いた双の眼に露わならぬ悲しみ涙を感じとり----
辺りは若葉で埋まっていて その若葉で御眼の涙をぬぐって差し上げたい
そんな気持ちが伝わってきますね!
盲いた眼を持って日本に渡って来られた{鑑真像}を拝し 静かに閉じられている
双の眼に打たれますね!
『天平の甍』の著者 井上靖は『おん目の雫』と題する著述で芭蕉の句について
この様に書いています
「芭蕉は鑑真像の 盲いた双の眼に それと露わならぬ悲しみを 涙を感じ
取ったのである」
{天平8年前後は 鑑真にとっては最も苦しい時期であった その苦しい時期のことを
思い出す度に必ず榮叡と祥彦の二人は鑑真の瞼の上に浮かんできたに違いないと
思う そして その都度 鑑真の盲いた眼は 何ものでも拭うことができぬ涙であったことで
あろうと思う---芭蕉はその涙を 若葉でぬぐって差し上げたいと思うたのである}(井上靖)
水楢の柔き嫩葉(わかば)は  み眼にして
                  花よりもなほや白う匂はむ 
盲ひて なお浄慧の人は明らけし   面もちしろく春を寂びてぞ 若山牧水 
鑑真和上の故郷.江蘇省揚州市の名花「瓊花」

ガクアジサイに似た白い可憐な花を咲かせ御影堂供華園が特別開園されます
鑑真和上遷化1200年の昭和38年(1963)に記念事業の一環とし中国仏教協会から
贈られた(瓊花)は種子で殖えない為.接ぎ木で増やし・隋の煬帝がこの花を愛し
門外不出にしたとも言われていますね!
中興忌梵網会~ハート形の宝扇・うちわまき・奉納舞楽
鎌倉時代~唐招提寺 中興の祖~大悲菩薩覚盛上人
蚊を叩たこうとした弟子に「血を吸わせるのも修行のうち」と説かれ蚊も殺さないほど
不殺生を貫いた上人を讃え.授戒の弟子である法華寺の尼僧たちが徳を偲んで
蚊を払う団扇を作って覚盛上人の忌日に霊前に供えたことに始まる
 {ハート形の宝扇}~「うちわまき」760年続く伝統法要「中興忌梵網会」(5.19)
行われました
サンスクリット語の真言が書かれた ハート形の(宝扇)(うちわ)赤い和紙で1本ずつ
丁寧に縁取り「覚盛さんが大切にした不殺生の精神をうちわから感じて頂きたいです」
(石田太一副執事長)
(中興忌梵網会)は南都楽所による雅楽演奏から始まり(講堂正面)には舞台が設営され
法要と合わせて南都晃耀会による奉納舞楽が執り行われます
境内にある2階建ての(国宝.鼓楼)の上から僧侶が鐘の合図に合わせ(うちわ)2.3本ずつ
500本!厄よけを願う多くの参拝に来られた人達は歓声を上げながら舞う
ハート形のうちわに競い合って手を伸ばしておられましたね!

観音の 千手の中に筆もたす み手一つありき涙す我は  白秋
観世音像 千手の指のことごとに 眼坐しにき清みかがやかに 白秋

大寺の  まろき柱の 月かげを   土に踏みつつ ものをこそ思へ    会津 八一 


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