2011/01/22

新春の古都 大和の夜空を彩る 《若草山 .幻想的な 炎の祭典》

古都の夜空を彩る伝統行事「若草山焼き」
正月の 4土曜日と決めらましたが~

三笠山(若草山) 奈良公園界隈を闊歩していた
小生の{青春の頃}~奈良商業時代(高校)には
例年115日の{成人の日}と決まっていました!


金峯山寺の山伏による 法螺衆が先導し~
{雅楽道楽}{僧兵}{奈良奉行所役人}{法螺衆}
{興福寺}{東大寺}{春日大社}役人 等々は
奈良県の職員さんが演じる行列等があり~

松明行列が篝火に点火~春日大社が山焼き
無事を祈願する祭礼~東大寺興福寺の読経中に
篝火から大松明へ点火---大松明から山麓
大篝火へ点火され~明治33年から続く
伝統行事が粛々と行われました



朝から~ 奈良公園《飛火野》
《大とんど》~お昼過ぎから
山麓の特設ステージでは
若草楽炎 LIVE
2011コンサート~
{鹿せんべい飛ばし大会}

県庁前では 福井県との交流イベント
奈良にぎわい味わい回廊--越前蟹や
トマトの販売~海鮮イタリアン鍋
大和の郷土料理{飛鳥鍋}~等々賑やかな
催しに全国各地から観光に来ら方々も
楽しんでおられました



伝統行事 {若草山焼き}~無事を祈る 祭典
実施された後~火種に一斉に点火される前に
寒中の古都の空に---打ち上げ花火は約600!
直径320Mの{尺玉}は《平城遷都1300年祭
賑った昨年の倍に増やされたそうですね!


大きく広がる尺玉~中には 春日奥山
《兎・鹿》等の 鮮やかな花火が打ち上げられ
午後615{まほろば}大和の新春の夜空を焦がす
素晴らしい《.幻想的な炎の祭典》に全国各地から
18万人の方々が 駆け付けられたと 報道
されていますね!



古都.奈良の冬の風物詩--明治33年からの伝統行事
  《若草山 山焼き》 は?

東大寺と興福寺の領地争い?
{史跡:鶯塚古墳}~若草山頂~
前方後円墳の霊魂を鎮める杣人の祭礼
若草山の幽霊を慰霊?
江戸時代に火を放ったのが始まり~

若草山を年内~翌年の1月頃までに焼かなければ
翌年に何か不祥事件が起こると考えられていた?
等々種々な説がある様ですが--原始的な野焼きの
遺風~つまり 若草山の 芽生えを良くする為とも
数々 雑多に~語り伝えられていますね!

いずれにしても古都の夜空を彩る{若草山焼き}
明治33年から伝統行事として定着しています
皆さん方も萬葉のロマンを感じ乍らこの様な
《若草山》山焼きの起源を一考されては
 如何でしょうか!



冬隠 春乃大野乎 焼人者
           焼不足香文 吾情熾

冬こもり  春の大野を  焼く人は
    焼き足らねかも  我が心焼く
         {万葉集 巻七}

春日野は  今日はな焼きそ  若草の 
     つまもこもれり  我もこもれり
       題しらず 読人知らず
          {古今和歌集 巻一}



2011/01/01

新しき年の初めに~{辛卯 元朝詣}~凛とした蜻蛉島 大和

新しき 年の初めに 思ふどち
   い群れて居れば 嬉しくもあるか 
     道祖王(などのおほきみ)  《萬葉 19

{五年正月 於治部少輔石上朝臣宅嗣家宴歌三首}
新年始尓思共 伊牟礼乎礼婆宇礼之久母安流可

{寒波の到来の日本列島}
凛とした{ 元朝}

寒波の中での年明け
豪雪の北国を始め~
日本海側にも暴風~
記録的な大雪
続いている
様子ですね~~
幸い 薄っすらとした
雪化粧で新年を迎えた
大和盆地~我が家の庭の
南天竺・山茶花
鮮やかな元朝の陽光
えていました

元朝詣は例年通り 春日社.布留社.生駒聖天.往馬社

武甕槌命が白鹿に乗って遣って来たとされる
《春 社》~{二拝 二拍手 一拝}

平城京の守護の為に創建された御社とされており
和銅3年(710藤原不比等が平城遷都の際
藤原氏の氏神を祀ったのが起こり神護景雲2
今の地に社殿を造営興福寺と同様 藤原氏が勢力を
伸ばすにつれ社殿の造営が行われ 平安後期には
現在のような規模を整えました

本殿向って{}--第一殿 茨城 鹿島神宮から
迎えられた武甕槌命(タケミカヅチのミコト)
第二殿 千葉 香取神宮から迎えられた 経津主命
第三殿 天児屋根命(アメノコヤネのミコト)と 
第四殿 比売神(ヒメガミ)は枚岡神社から 其々
春日の地に迎えて祀られています
奈良時代の神護景雲二年(768) 現在地に四所の
神殿が創設されたのが始まりとされています
境内に含まれる主なものは標高295mの
御蓋山全域の山林部と社頭から西方
飛火野・雪消の沢一帯の芝原
若宮おん祭の御旅所(おたびしょ)から
一の鳥居に至る参道の地帯を含む平野部です

また{万燈籠}で知られる釣燈籠 石燈籠の多くは
庶民の寄進によるもので 庶民信仰の深さを
伺い知ることができます
毎年2月節分の日と81415日に全ての
燈籠に火を入れる“万燈籠”の行事が
行なわれています


布都御魂大神を主祭神とされる
《石 宮》{石上神宮}

石上布留社 古代の山辺郡石上郷に属する
布留山の西北麓に鎮座し 布都御魂大神
神体である布都御魂剣に宿る神霊とされ
布都斯魂大神 宇摩志麻治命 五十瓊敷命
白河天皇 市川臣を 配祀されています
市川臣は 孝昭天皇の皇子.天足彦国押人命の
後裔で 当社社家の祖です

『古事記』・『日本書紀』に既に 石上神宮
石上振神宮との記述があり古代軍事氏族である
物部氏が祭祀し~ヤマト政権の武器庫としての
役割も果たしてきたと考えられています

社伝によれば布都御魂剣
武甕槌.経津主 二神による
葦原中国平定の際に使われた
剣で 神武東征で熊野において
神武天皇が危機に陥った時に
天津神から高倉下の手を通して
天皇の元に渡りその後 物部氏によって宮中で
祀られていたが神天皇7年勅命により物部氏の
伊香色雄命が現在地に遷し{石上大神}として
祀ったのが当社の創建とされています
また禁足地は今もなお 布留社と刻まれた
剣先状石瑞垣で囲まれています


歓喜天が守護神の 宝山寺・生
《大聖歓喜自在天》{都史陀山大聖無動寺}

除日の夜生駒聖天 鐘楼の余韻が~
凛として朗々と寓居にも響いて来ました

生駒{大空の中に龍に乗れる者あり かたち
唐人に似たり 青き油笠を着て葛城の嶺より
馳せて胆駒山(いこまやま)に隠る~午の時に
いたりて住吉の松のいただきの上より
西に向い馳せ去りぬ~(日本書記)とあります

生駒山は古くから神霊の宿る山として崇められ
役小角 空海の修行の地との伝承があり~
今も山中にお瀧場として霊場が点在しています



真言律宗 正式名{都史陀山大聖無動寺}と言い
延宝六(1678)年 宝山湛海の開山
本尊は 不道明王だが 聖天さんと呼ばれる
大聖歓喜自在天への信仰が強く
この寺の信仰は 般若磐と呼ばれる安山岩の
突起に出来ている洞穴に見る巨石信仰にあり
特に生駒市から南へ行った処から見る岩山には
ただならぬものを感じるものです


生駒に拠点を置いた
『記紀』に表れる---
最古の氏族は~長髄彦や
物部の遠祖の饒速日尊で
あり彼らを奉じる氏族は
この磐山を見逃すはずが
なく 聖地として敬ったと
考えられていますね!



生駒山が御神体の 往馬坐伊古麻都比古神社

御祭神は 伊古麻都比古神(産土の男神)
伊古麻都比賣神(産土の女神)ほか 五柱で
貞観元年(西暦859)『延喜式神名帳』には
往馬坐伊古麻都比古神として名を連ねる神社です


また{生駒曼荼羅図}は県の絵画とされ伝統行事の
火祭りは県の無形民俗文化財と指定されています
つまり 往馬大社は古くから火の神として尊ばれ
歴代天皇の大嘗祭に用いられる 火きり木を
献上されており昭和天皇の大嘗祭や平成2年に
執り行われた 平成の大嘗祭の{斎田點定の儀}にも
往馬大社の 火きり木が使用されましたね!


斎串立て 神酒据ゑ奉る 神主部の
    髻華の玉影 見れば羨しも
      ( 萬葉 巻第十三 ))

五十串立神酒座奉神主部之雲聚玉蔭見者乏文





酒もすき 餅もすきなり 今朝の春  高浜虚子

山めぐる 大和国原 日の始 岡本 艶女 『松 苗』


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